不思議な出会いに思う、人生おまかせ論
鹿島神宮に参拝する
私の今の趣味である「剣術」との出会いはちょっと、不思議です。まだ、スピリチュアルにどっぷりはまっていた頃のお話。当時は、ヒーラーを生業にしたくて、成功されていた、いろんなヒーラーさんを訪問していました。
そのうちの、一人の女性のヒーラーさんに、お会いしに行った時のこと。仕事上のアドバイスをもらいながら、その方のヒーリングを受けていたのですが、その最中に、突然、こんなことを言い出したのです。
「鹿島神宮に、ぜひ、行くように、とのことです。」
その方は、いわゆる霊感の強い方で、そのように、(「上の方」から)言われたというのです。当時は、目に見えない世界を躊躇なく信じることができたので、「ああ、鹿島神宮・・・はい、必ず行きます!」と、ものすごく喜びました。
なぜかというと、当時、武道の一種で、「居合」をやっていたからです。居合とは、大雑把に言うと、緊急時に、刀を速く抜く武術のことです。鹿島神宮と言えば、茨城県にある、武道の神様が祀られている神社。つまり、武道関係者なら、一度は参拝して、ご加護を受けたいところなのです。それに、有名なパワースポットでもあります。
鹿島神宮拝殿
鹿島神宮奥宮
ただ、家からは、車で3時間ほどかかります。そう、ちょっと、遠いんですよね。だから、今まで、行楽のついでに一度だけ、それも小さい頃に立ち寄ったことがあるのみ。自ら進んで行こうとは、思いませんでした。
しかし、そこに、行きなさいっていう「ご神託」があったのだから、「これは行くしかない!」って思ったというわけです。今でこそ、スピリチュアルからは、ある程度はまったら、速やかに抜け出すべきとお伝えしていますが、基本的に、私は神話とか、ファンタジーとかは嫌いではありません(笑)。むしろ、好きだったから、目に見えない世界も、すぐに信じることができました。
かくして、1ヶ月後くらいに、神宮へのご参拝を無事、果たすことができました。その時は、スーツを着て、昇殿して、ご祈祷までしてもらいました(気合い、入ってました!)。
ちなみに、鹿島神宮には、他ではなかなか見ることのできない、森林浴に最適な深い杜があります。ここを歩いていると、自然と呼吸が深くなり、心身が洗われる感じになります。まさに、パワースポットです。家が近ければ、毎日、散歩したい場所です。
趣味の先生との出会い
この参拝以来、私は、鹿島神宮が大好きになりました。参拝後は、居合もやめていて、武道とは無縁でいました。しかし、時を待たずして、『塚原卜伝』という時代劇のテレビ放送が始まったのです。塚原卜伝は、鹿島神宮の神官の家に生まれた剣豪です。生涯、一度も刀傷を負うことがなく、「剣聖」と謳われたと言います。
ドラマのストーリーは、若き日の卜伝が真剣勝負を重ねながら、剣を極めることの意味や理解を深め、やがて、神から剣の奥義を授かるという、どこかファンタジックなお話です。これが、個人的には、ハマってしまって、「やっぱ、武道っていいなあ、もう一回、どっかで、剣のお稽古したいなあ」って思ったのでした。
そこで、ネットで再び、お稽古場を探した結果、今の剣術の先生にお会いしたというわけです。私は、習い事は、あんまり続いたことがありません。なぜなら、人との関係が面倒くさいから。武道っていうと、なんか、一人で黙々と修行するのが当たり前だって思いません?私だけなのかな?
まあ、とにかく、武道教室って、その性質上、ビジネスも絡んでくるのです。これは、今も昔も一緒。いろいろ、演武会とか、イベントやら、なにやらあって、そういうのに協力しないと、いろいろ、あるんですよ。
前は、さっきお話した居合のほかに、剣道も半年ほどやっていたことがあるのですが、それも、やっぱり、そういう付き合いが煩わしてくて、疎遠になってしまいました。
一度逃げ出した私に救いの手が・・・
今の先生の教室も、規模は小さいですが、実は、会として活動しています。私も初めは、その会に所属していました。しかし、やっぱり、いろいろあって、行かなくなってしまったのです。「ああ、やっぱり、人の集まるところは、ダメなんだなあ」って、ちょっと、情けなくなりました。そこもたぶん、半年ぐらい通っていたと思うんですけれど。
「しかたない。また、気が向いたら、どっか、探すかな・・・」なんて思っていたら、なんと、先生の方からご連絡をいただきました。「会の稽古で都合が悪ければ、家の稽古場においで。」と。そんなお誘いに、二つ返事で、お邪魔することに。
以来、お稽古は5年目に入りました。お忙しい先生の、お仕事の合間を縫ってのお稽古なので、お時間はそんなに取れないのですが、なにより、お稽古が楽しいのです。
厳しいことも言われるし、私自身も、あんまり、賢い方ではないので、なかなか覚えられないこともあるのですが、それでも、今のお稽古場に通ってからは、自分からやめようと思ったことは一度もありません。
本当に求めていれば、いずれ、その時が来る!
今でも、不思議に思うのですが、あの時、先のヒーラーさんから鹿島神宮に行くように言われなかったら、そして、あのタイミングで『塚原卜伝』が始まらなかったら、今の剣術と、先生との出会いはありませんでした。
それに、一度、会をやめたのに、まさか、先生のご自宅でお稽古を受けられるとも思いませんでした。一度だけ、聞いてみたことがあるのです。「先生はなぜ、私を受け入れてくださったのですか?」って。
そうしたら、ただ一言、こう仰いました。「あなたが、それを求めていたから。」
そこで、ふと、思い出しました。もう、かなり前、おそらく10年以上経っていると思いますが、たしかに、こんなことを思っていました。「どこかで、一対一で武道を教えてくれるところはないかな」って・・・。
今回は、自身の趣味との出会いをお話してみました。この体験からも、別段、願いとか、潜在意識とか、こだわらなくても、そして、自身の性格を変えなくても、人生でやるべきことは、やるようになっている。縁あるものは、そのように、勝手になっていくという証ではなかったか、と思っています。
私たちは、もしかしたら、勝手になっていくものに対して、あとから、そのようになっていった意味づけをしているだけなのかもしれません。私であれば、鹿島神宮とのご縁は、ヒーラーさんから伝えられた言葉を劇的に捉えているわけですが、それは、ただ、自身が勝手にそのように思っているだけなのです、たぶん。
それは、剣術をやるための、ただのひとつの出来事(手段)であって、私が目に見えない世界を信じられるタイプだから、そのような成り行きになった。
もし、スピリチュアルを信じられないタイプだったら、また、別の形で、直接、先生にお会いする機会があったのかもしれない・・・と思いましたが、そもそも、剣術には興味をもたないで、別のなにかをやっていたかもしれません。それは、それで、きっと、楽しい時間を過ごしていたと思います。
すべては成就されるべき方向につながっていく
どちらにしても、スピリチュアルを特別なことのように思うのは、やはり、偏った見方と言えます。日常の何気ない出来事が、ある成就されるべき方向に、自動的につながっていると考えるのなら、平凡な日常も、いわゆるスピリチュアル的な「ご神託」も大差はないのです。
すべての出来事が同等で、しかし、貴重な伏線となっているのですね。時間がかかっているように見えても。だとしたら、繰り返しになりますが、私たちにできることは、目的達成のために、性格を変えることではなく、なにがなんでも、実現しようとするガムシャラな努力をすることでもなく、ただ、今の状況がどんな伏線となっていくのか、他人事みたいに、楽しんでいくことだけかもしれませんね。
とはいえ、鹿島神宮は私にとって、特別な存在ではあります。毎年、お正月には、必ず参拝し、昨年の感謝と剣術の上達、1年の無事をお祈りして、「また、1年、テキトーにやってやるかあ!」って、心新たにして、帰ってきます(えっ?不遜ですって?)。
スピリチュアルにのめり込むのはよくないとお伝えしていますが、やはり、私は神社が好きです。人間と一緒で、ご縁あった神様が寄り添ってくれると思うのは、やっぱり、うれしいし、心強いものです(笑)。