泳ぐより流れていってみる

私のお気に入り穴場スポット

自分の好きなことの一つに、自転車散歩がある。私の住むところは、昔と比べて格段に便利になってきたとはいえ、自他ともに認める田舎町。市街地から外れれば、幼少の頃から変わらない、のどかな田園風景が広がる。

家から5分ほど走ると、町を流れる小さな川べりにたどり着く。昔ながらの、土を少し高くして芝生を敷いただけのような、簡易な堤防に囲まれている。

大雨の時は、早い段階から水位が上がってきて、いつ溢れるか、冷や冷やする。しかし、いつも、ギリギリのところで凌いでいる、運の強い(?)河川だ。今のところ、決壊はない。

川には、小さな石橋がかかっていて、遠くから眺めるとなかなか、ノスタルジックだ。散歩の途中、必ずここに立ち寄っていく。橋の欄干に腰掛けて、中央から眺める、風景が大好きなのだ。

真ん中に川が流れ、今の季節、左右には、黄金色に輝く稲穂が揺れる。刈入れをしているところもあり、イネを刈った後の、あの香ばしいような田んぼの香りが鼻をくすぐる。

どこまでも青い空を、白鷺が羽を広げて心地よく舞っている。人はほとんど通らず、時がゆっくりと流れていく。ボーッとするには最適な、この町の穴場スポットである。

流れに逆らうな

ただ、ただ、川面を眺めるのも面白い。日毎に、その様相はちょっとずつ、違っている。流れが速かったり、ゆったりだったり。浅く透明で川底が見えたり、時には、人を吸い込んでしまいそうなほどの漆黒と水量で怪しく流れていく。

そんな川を眺めるたびに、小さいころ、父親からよく言われた言葉を思い出す。

「いいか、もし、万が一、川で溺れるようなことがあっても、ジタバタ、手足なんか動かすんじゃないぞ。

まず、流れに逆らっちゃダメだ。どんなに流されてもいいから、泳いで岸に辿りつこうとはしないで、ぷかぷかうきながら、川を徐々に、徐々に、斜めに横ぎりながら、岸に向かうんだ。泳がなくても、岸につけばいいんだからな。」

父親も、田舎育ちで、子供のころは川でよく遊んでいたらしい。泳いで向こう岸に渡り、近所の人からスイカを一玉もらってきて、再び川に飛び込み、脇に抱えながら片手で泳いで、こちら岸に戻ってきたと、よく自慢していた。

昔の河川は、今ほど流れが急ではなく、わりと泳ぎやすかったらしい。それでも、時々、深みにはまり、足がつって冷や汗をかいたこともあったそうだ。「表面から見て、穏やかそうに見えてもな、川ってのは、怖いんだぞ。下がどうなってるのかなんて、わからないからな。」

まあ、私は、父親ほど運動神経もよくなく、おまけに、泳ぐのはそんなに好きじゃなかった。小学生の頃のプールの時間は嫌いでしたから。水のあるところは、浅瀬でパシャパシャやっても、泳いで沖に行こうとしたり、向こう岸に渡ろうとは、考えない人間だ。

川の流れと、人生の流れと

ところで、父親が得たこの教訓。子である私は、生き方に応用しようと思いましたよ。人生を川の流れになぞらえるなら、やはり、流れに沿って、流れに逆らわずに、浮いていく生き方にしてみよう、と。

今まで、手足ばかりバタバタ動かしてきたみたいだから。流れに沿っていると、時々、そばを流れていくものがあることに気づく。ちょっと、手を伸ばせば、取れるものがある。そういうものは、ヒョイと手を伸ばして、取ればいい。

そして、こちらの流れとは、違う速さで流れていくものもある。遅かったり、速かったり。流れが違うのだから、手を伸ばしただけでは取れない。

泳いで、取れるものがあれば、泳いで行ってみるのもいい。ただ、今は、体力が不足していたり、もしかしたら、取ろうとする先に、深みがあったりするかもしれない。無理してはならない。

たとえ、それを逃したとしても、次のものが流れてくるかもしれない。運良く、向こうから近づいてきてくれるものだってあるはずだ。いや、あるいは、もう、二度と流れてこないかもしれない。それなら、それでいいじゃないか。

取れたものをコレクションにしてニヤニヤするのもいいけれど、それよりも、最後に、岸にたどり着いた時、何を思っていられるだろう?自分としては、そっちの方に興味がある。だから、手に入るものがあっても、なくても、向こう岸に渡り切る。そして最後に、その景色を見ることが重要だと思っている。

それが唯一の正しい道のり、方法だとは思っていないし、手段なんていうのは、いつでも、変わっていけばいい。でも、多分、これからもそうやって、流れていったほうが、自分らしく、穏やかに、豊かに生きていけそうだ。

ここのところ、過ごしやすい気候が続いていて、自転車で風を切るのが最高に気持ちいい。とてもいい流れの中にいるようだ。

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