スピリチュアルも現実もリスク分散だ!
離れてから3年後の想い
このブログの初期は、スピリチュアルへの疑問や、そこから距離を置いたこと、地に足をつけた現実生活への復帰などの軌跡をつづっていました。すると、ありがたくも、「私も、同じようなことを思っていました」といったメールを何通か、いただいたことがありました。
「何年も、スピリチュアリストを自称しながら、いつまで経っても、問題を抱えている人が私の周りにも多い」そんなメールの一文は、まさに、私の過去そのものでした。
感想をいただいてから、もう、3年ぐらい経つと思います。改めて、今、そういったスピに対して思うことがあったので、ちょっと、気ままに綴ってみようかな?と思いました。
嫌悪感が消えた
実は、「スピリチュアル」っていうことばを聞くと、ブログ書き始め当初は「嫌悪感」みたいなものを感じていたんですよ。「スピなんかに、ハマって、もったいなかった。スピは、まかり間違えば、詐欺同然だ」っていう気持ちが強かった。だからこそ、スピから脱したことが嬉しかったし、何にも変化がないなら、さっさと卒業しようよって言い続けて来ました。
しかし、今、その気持ちが、かなり薄れました。楽しめる範囲なら、とことん、楽しめばいいんじゃないかっていう気持ちになっています。
過去を振り返ったとき、自分は、もともと、神秘的なものが好きだったんですよね。昔話に出てくる神様や、龍、鬼が活躍するお話は、子供の頃からワクワクしながら読んだり、観たりしてきましたし。そういうバックグラウンドがある以上、精神世界に目が向くのは、ある意味、必然でした。
そこで思ったんですよ。興味を持つのはいい。もし、不都合があったとすれば、これは、やっぱり、「使い方」の問題なんだ、と。つまり、スピリチュアルに、生きかた全てをかけなければ、いいのです。なんていうかな、投資と同じでリスク分散が大事なんですよね。
神仏がダメなら自分がいるじゃないか
スピは、心を救ってくれる部分は、大いにあると思うんですよ。例え、一時でも。目に見えないものが、守ってくださる。そう思えたら、心強いじゃないですか。私も、今でいう、「推し」の神様がいます。その神社のお守りがあると、なぜか、守ってくださってるって思える。それは、ほんの少しかもしれないけれど、私にとってのささやかな「救い」です。
でも、その見えないものが、全ての願いを叶えてくれる、「信じてるんだから、叶えてくれなきゃおかしい」とは、もはや、思いません。信じるものが、いつでも、助けてくれる…。合理的に考えて、これは、どう見ても、リスクが高い。状況や環境を冷静にみれば、明らかに、「そりゃあ、願うものが違うでしょ…」っていうのは多々あるものです。
そこに気づいたら、何か、他にも、頼りになるものを持っておいた方がいい。神仏でも(!)ダメだった時のためにね。そう、リスクの分散です。スピリチュアルがダメなら、自分自身がいるじゃないか…。「神や仏が聞いてくれないなら、自分がいる!」この意気込みです。
一つに頼るのは、やっぱりリスキー
で、この自分自身に切り替えた途端に、すぐに、頼りになるかっていうと、そんなことはもちろん、ないです。不安にもなるし、見えない奇跡が欲しくなる時もある。でも、この自分自身は、「視点」を切り替えることができる。つまり、人間は、いろんな、ものの見方をすることができるのです。
一つの現象が起きても、善と見てもいいし、悪と見てもいい。いろんな捉え方で、判断ができる。目に見えないものに頼らなくても、大丈夫な自分が出来上がります。視点を増やすには、本を読んだり、あるいは、人を介して培うしか、ないと思います。もちろん、無理のない方法で。
私に関して言えば、多分、週4日の仕事を通して、いろんなものの見方を増やしてもらってるところはあるのかもしれません。多角的な視点を増やすことを人間的な「成長」と呼ぶ人もいるんだけど、個人的には、あまり、企業的な「成長」という言葉は好きではありません。
個性を伸ばすっていうよりも、ただ、視点を増やしていくだけです。仕事でも、遊びでも、ニートでも、状況はなんでもいいから、「より良く生きるための視点を増やす」っていうことだけ。自分なりに、生きやすい人生を送るために。
一つに頼らなくていいのは、本当に気楽です。スピリチュアルに嫌悪感を抱かなくなったのは、そこだけに頼らなくて良くなった、余裕から生まれたんだと思います。今なら、以前より、もっと純粋に楽しめると思います。占いも、ヒーリングも。
まあ、だからと言って、自分自身が絶対に、頼りになるとは思えませんので、苦しい時は、神頼みですよ(笑)。でも、一つの出来事を、多方面から観られる視点を、もっと、増やして、もっと、自分を頼りにしたいですね。
好きなものは好きでいい。でも、スピだけに頼らなくなると、逆に、スピも楽しめるようになるし、また、現実も、少しずつ、楽しいことが増えていく。現実が楽しくなれば、今まで通って来た道に、自分が納得できるだけの意味づけを行なうことができるものです。
まあ、私は、もう、面倒くさいので、通って来た道の意味はどうでもいいかなと、思っています(笑)。要は、「スピリチュアルも、現実も、楽しければいいんじゃないかっていう感覚に変わりました」っていうお話でした。