「権威」から「覚悟」への転身

弱いから強くなりたかった

どこかの記事でもちらっと、触れましたが、「なぜ、自分自身が剣術というものに興味を持ったのか?」と言えば、おそらく、「弱かった」からだと思います。

 

子供の頃は、よくいじめられました。

 

学生の頃も、気弱そうに見えたのか、ナメた態度を取ってくる人がけっこういました(笑)。もちろん、同じくらい、素敵な出会いもありましたが。

 

人に、ナメられてはいけない。弱い人間であってはならない。強くならなくてはならない。そんな思いが、「弱さ」という概念を補いたいがために、「強さ」を象徴するというか、人と戦って勝つための手段を欲したのかもしれません。

 

スピリチュアルとか、仏教とか、思想に興味を持ったのも、そういった「強くなるための手段」でしかなかったのでは?という思いは、今でも抜けません。静寂を好むのも、実は、弱さと強さのぶつかり合いを極力避けたい、という思いがあるのでしょう。

そもそも自分らしさとは何なのか?

では、その弱さを克服するための「手段」に興味をもって、弱さを克服できたのか?っていうと、このブログで何度も書いてきた通り、弱さは弱いまま、厳然とそこにあり続けるのです。克服しようと思えば思うほど、「お前は、弱いんだよ」と主張し続けてきます。

 

格好つけても、見て見ぬ振りをしても、いくらでも、その存在を主張し続けます。もはや、どうしようもないのです。

 

しかし、その弱さに抵抗しなくなったとき、いわゆる「自分らしさ」という自由を感じることが多くなりました。弱さを、弱いままで構わない、という開き直り。もはや、弱さをどうこうしなくてよいのだ、という開放感です。

 

開き直っても、強くはならないし、たいした引き寄せもないし、なにも生活は変わりません。

 

ただ、「もはや、このままの自分から始めればよい」という清々しさと心地よさを感じ始めます。側から見ると、非常にわかりにくい、感覚。内面が変われば、現象も変わるっていう期待が強いと、たぶん、気づきにくいです。

 

で、ここでもうひとつ、疑問が浮かびます。そもそも「自分らしさ」って何なのか?ってこと。

 

人それぞれ、いろんな答えがあっていいと思うのですが、私の最近の結論。自分らしさとは、湧いてくるすべての感情や思考を「これは、自分じゃない!」とやらずに、「それも、自分でいい」とすることです。

 

いろんな思考や、感情をもつ自分がいるっていうことに気づいていればよいのです。怒るのも自分、「なんて私はダメなのだ」と悲観するのも自分、あんなひどいことを考えるのも自分、エロいことを感じるのも自分であります。

 

自らが勝手に決めた理想の自分だけにこだわらず、すべての顔をもつ自分がいる。いろんなタイミングと環境で、ただ、いろんな自分が湧いてくるだけ。

 

状況に応じて、いろんな「自分」を出せばよいのです。私自身は、クールで、イケメンで(?)、何事にも動じずに淡々と物事をこなし、博愛精神に満ちた(?)自分がメインだと思っています(どんなツッコミも、甘んじて受けます!)。

 

しかし、そんなの、ただの私の一部分に過ぎません。喧嘩を売られれば、もはや、黙っちゃいられません。職場で、嫌味を言われたら、嫌味でかえします。イメージと違うと、同僚に言われても、です(!)

 

ここで、今まで言ってきたことと矛盾しますが、しかし、とっても大事なことを言います。いろんな自分がいるっていうことは、ひっくり返してみると、そもそも、「自分らしさ」ってないんですよ。

 

だって、その時、その時の状況、環境によって、いろんな感情や思考が湧いてくるのだとしたら、そして、それも自分であるのなら、「これが自分だ」って言えるものがなくなるのですから。

 

もはや、「自分らしさ」を決める必要なんか、ないのです。こんな自由なことってありません。そして、その自分らしさがないことに気づいた時、面白いことに、「たしかなもの」を感じるかもしれません。

「権威」ではなく自身の「覚悟」を基準に生きる

今まで、ネガティブな言葉を言っちゃいけない、カルマを積むことになる、なんていう「教え」を聞いて、「それは、その通りだけれども・・・」っていう矛盾した感情を抱えながら、幾たび、悶々としてきたことでしょう。

 

あれをすれば、幸福になり、これをすれば、不幸になる。スピリチュアルとか、思想に興味を持つ人は、そんなことに、何度も、心を奪われてきたのではないでしょうか。

 

しかし、そもそも「自分らしさ」というものがないのなら、安心してさまざまな自分になればよいのです。いろんな自分がいるのだから、ポジティブと同じように、ネガティブもありです。

 

そして、すべての顔がありになったとき、あなたの羅針盤となってくれるのは、「あなた自身が生き方に責任をもつのだ」っていう覚悟です。

 

それは、どんなことが起きても、人のせいにも、カルマや因縁のせいにも、スピリチュアルや思想や、誰かが言った概念のせいにもしない。すべてを引き受ける。

 

この覚悟があるからこそ、いろんな顔をもてます。

 

一応、誤解のないよう、言っておきますけれど、「すべてを引き受ける」っていうのは、嫌なこと全部を犠牲的精神で受け入れるってことじゃありません。むしろ、逆であります。

 

よりよく生きるために、あなたが選んだ選択に責任をもつ、っていうこと。

 

避けるべきものは避ける。避けても、避けても追ってくるものは、どんな手段を使うにせよ、向き合う。もちろん、戦うべき時は、必要最小限、戦うのもあり、と私は考えます。

 

ただし、すべての責任は、自身で引き受けるのです。この覚悟があれば、もはや、あなたは、最強です。スピも、どんな偉い人が言った名言も、因縁もカルマも、あなたには敵いません。

 

この、実は、とてもシンプルで当たり前のことが、スピリチュアルをはじめとする、その他の思想や手段に「権威」を持たせることで、覆い隠されてしまうのです。

 

これは、同時に、その「権威」に自身の人生の責任を転嫁してしまうことにもつながります。

 

スピで、あの本で、このセミナーでこう言っているから正しい、不正解である。冒頭の例で言うなら、弱さを不正解とすること、弱さを強さにとって替えることがすべて正しいのかどうか・・・。

 

もう一度、「権威」ではなく、自身の「覚悟」を基準にしてみると、少しずつですが、感じ方が変わってくるかもしれません。

 

自身の覚悟を通して、世の中を観れば、自分がなんで、弱いのかなんて、もはや、どうでもよいことです。弱いなら、弱いなりに、したたかに、生きていけばよいのです。

 

そして、ある時、気づくのです。弱いとは、実は、強さだったりする。そもそも、弱いは本当に、弱いのか?と。

 

おんなじ理由で、お金とか、人とか、いまある環境とかを、振り返ることができます。そもそも、その概念は、本当に、そういう意味でいいのでしょうか?

 

ちょっと、状況やタイミング、見る角度を変えるだけで、あなたはいろんな顔になれます。

 

弱さっていうのは、本当に弱いのかっていうのと同じように、本当に、それは、ないのか、足りないのか、ひっくり返してみるといいと思います。

 

だからって、現象は、なにも変わらないでしょう。でも、なにかが変わるかもしれません。

 

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