自分と人生は別ものだ!
小心ものは「放っておく」を身につけた
言うまでもないことなのだけれど、私はものすごく小心ものだ。おかげで、小さい頃から随分といじめられてきたし、ブログでは、ちょっと、まだ、書きたくないような辛い想いもしてきた。
そういう辛い想いを二度としないために、強がることも覚えたし、人にコビも売ったし、スピリチュアルに傾倒し、自己啓発にも熱中した。
武道に興味を持つのも、おそらくは、そういう弱い自分と決別するためだったのだと思う。しかし、やっぱり、小心者の性格は変わらない。
さて、変わらないとなると、もう、どうしようもない。何をやっても変わらないのだから。それから、しばらくして、「放っておく」っていうのを知らず、知らずのうちに、身に付け始めたようだ。
身の回りに起きることも、思考も、感情も、湧いてきても、「もういいよ、知らないよ…」ただ、ただ、流すだけにしていた。ただ、ただ、流すだけにすると、本当に、すべてがただ、ただ、流れていく。なにもおこらず、1日が過ぎていく。
1日は、ただ、ただ、過ぎていくだけだけど、実は、少しずつ変わっていっていると気づいたのは、もうちょっと、気持ちが落ち着いて、穏やかになってからだ。日は、ただ、ただ、過ぎていく。けれども、生きているととりあえず、何かやっている、それも自然に。
人生を放っておけるなら、人生は、自分じゃない
その結果が今、なんだけれど、それは、本当に自分がやったのだろうか?ちょっと、不思議な感覚になることがある。ろくな人生ではなかったか、それとも、実は、望み通りの人生だったのか。まあ、望み通りに来ていると思いたいけれど、そんなことは、本来、どっちでもいいことなのだと、最近は、思う。
思うに、自分が「考え、感じている」人生というのは、思い切っていえば、いわゆる「本来の自分」ではない。「自分の人生」とは、「本来の自分」ではなく、全く、別ものだ。
なぜか?それは、何かが起こり、ある思考やある感情が湧いてきても、放っておける何か(意識)みたいなものがあるからだ。
あるものを放っておけるなら、それは、自分じゃない。だからこそ、小心者はそのままでいいし、無理やり、強くなる必要なんかない。だからこそ、また、起きることに意味はないし、人生にも大した意味はないのだ。
こんな感じで、私は、数年前の嫌がらせは、ほぼ、流すことで乗り切ったし、職場でどう思われようと、関係がなくなった。いずれ、時が経てば、何かしらの変化が起こっていくし、そもそも、それ(人生)とこれ(ここにある自分というか、意識)は別物だと、戻れる瞬間がある。
人生に意味がなくなってはじめて…
とまあ、上に書いたことは、ちょっと、落ち着いている時、自転車で風に吹かれている時に、ふと、感じることだ(感じられるってことは、たぶん、嘘っぱちですな!笑)。それでも、「自分の人生」は、やはり続いていく。大いに悩み、欲望にまみれて生きていくさ!
大いに悩み、欲望にまみれてもいいから、ことあるごとに、思い出しておくと、きっと、生きるのは少しずつだが、楽になっていく。自分の人生は、大したことない。大したことがなくなれば、たぶん、全く動かなかったハンドルが少しだけ、切れるようになる。
少しっていうけれど、少し切れたら、すごいんだ。だって、その少しのおかげで、進めば進むほど、方向はどんどん変わっていくので。
「思い通りに生きる」と気張る前に、その人生は、自分じゃないと納得できれば、「思い通り」の定義もきっと、変わってくるし、そもそも、どっちでもいいものになるかもしれない。冒頭の強さと弱さも、同じだ。
ただ、一つ、決めていることがある。自分に無理なことは強いない。無理がなければ、どっちに転んでもいいし、どっちの人生でも納得できるはずだから。