「幸せに生きなければならない」なんて誰が決めたの?

夢とか希望が薄れる

ここ最近、いろいろ書こうかな?と思うこともいくつかあったのですが、どうもしっくりこなくて、途中で筆が止まっていました。加えて、私自身、日々、仕事やら、趣味の剣術とかをやりながら過ごすうち、とくに、「こうしたい」という夢とか、希望みたいなものも薄れ、ただ淡々と過ごす・・・そんな毎日が続いています。

 

職場は、相変わらず、いろいろあります。でも、趣味の延長のような運転職は、独壇場でけっこう楽しいし、個々の不満はあっても、全体的に見れば、面白さの方が先に立つようになりました。趣味の剣術も、ここ最近、「いつかは師範になりたいなあ」と思いつつも、稽古自体が楽しいので、「まあ、このまま、ダメ弟子で終わっても、いいな」と、やっぱりやる気のなさが先に立っています

 

人間として生まれた以上、喜びとか、面白さ、楽しさなどの陽気な部分と、不安、不満、恐怖などのネガティブな部分はついてまわるもの。これをなにかに頼って消そうとか、どうにかしよう、というのは自然に反するようです。

 

それよりも、ポジティブな部分は素直に享受しつつ、できれば、受け入れたくない出来事、感情なども、それぞれ、得意とする方法で、うまくかわしていく。そちらのほうが、生きるための選択肢が広がり、結果的に、楽しい人生になるのではないかと個人的には思います。

 

まあ、私の場合は、とりあえず、放っておくことしかできませんが。それに、人生に、楽しく生きるとか、そういう条件も、できれば、固執しないほうが精神的にも楽に生きられます。

ある特定の環境と条件だけをみて生き方を判断しなくていい

悲観的に生きたって、よいのです。環境とか、タイミング的なものを考えれば、そちらのリアクションのほうが、適切な場合もあるからです。要するに、ある一定の環境とか、条件だけでもって、「私は、こういうリアクションをしなければいけない」とか、「強く生きなければいけない」「幸せに生きなければいけない」っていうものは、考えなくてよいのです(とは言っても、考えちゃうと思いますが、それでも、問題ありません)。

 

そういう、「ああだ、こうだ」の部分(感情とか)を放っておくと、その先に、「なんとかなるだろう」みたいな、落ち着いたなにかを、断続的にですが、感じられるようになるかもしれません。それは、別に、目にみえる形で、私たちを幸せにはしてくれません、たぶん。でも、きっと、根拠のない安心感は与えてくれると思います。

 

そして、本当は、そんな安心感とかも、どうでもよくなる・・・というか、どっちでもいいっていう感覚。その感覚のほうが、もしかしたら、本当の私たちに近いものなのかな、と最近、感じているところです。(*1)

 

つまるところ、あまり、いろいろ考えずに、環境に合わせて生きてもいいし、やりたいことがあったら、淡々と、やってみる。うまくいくとか、いかないとかは脇に置いといて。(*2)それで、私たちは、十二分に、生きている価値があるし、はじめから、価値があるのだから、それすら、考える必要はないのです。(*3)

 

 

こんな偉そうなこと書いている(その割に、テキトーである)私には、「なにかをやってやろう!」という気概はほとんどありません。でも、ですよ・・・どんな環境でも、どんな時代でも、フラフラしながら、しかし、したたかに、生き延びようとは、密かに思っております。もしかしたら、この先、面白いものがたくさん、見られるかもしれませんから。そこだけは、ブレていません(?)。

 

 

(*1、*2 、*3     2018年7月23日 加筆)

 

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