「世界=自分」より、目の前の世界こそがすべてである
世界=自分にこだわる必要はない
スピリチュアルにはまっていたとき、よく聞いたフレーズがありました。それは、「世界=自分だ」っていうもの。
今、目の前に起きていることは、すべて内面の投影で、世界はすべて自分自身が創り出しているっていうことですね。自分の周りは良い事尽くめにしたいものです。なので、一生懸命、内面をよくしようと努力してきた方も多いのではないでしょうか。
私自身は、世界は自分だという、ある種の神秘体験のようなものはないので、これを語る資格はないのかもしれません。ただ、放っておくとか、どうでもいいとかを言い続ける視点から、考えると、別に、世界が自分という体験や言葉にこだわる必要はありません。
むしろ、こだわらないほうが、逆に、よりよく生きられるような気がします。
たしかに、ある人や特定の出来事が気に入らないのは、自分のなかに、そういう嫌な部分とか、醜い部分とかがあるせいなのかもしれません。周りの風景が良くなるように、内面を磨いていくことも、すばらしいことだと思います。
でも、ちょっと、窮屈じゃありませんか?毎回、毎回、反省だらけじゃ息がつまりますし、全然楽しくない。
それよりも、気に食わないことが起きても、「ああ、そうなんだ」とか「そういうこともあるよねぇ」と、すぐに流せる方が、楽に生きられます。なにせ、マイナス面に対する免疫ができてくるので、断然、こちらの方が、生き方としては強い(ここでの強さとは、勝てる強さではなく、生き抜く強さです)。
これは確かです。そして、これこそ(マイナス面も体験していくこと、体験できること)が、本当の意味で、世界は自分だという証だと思うのは、私だけでしょうか。だって、よく言うじゃないですか、世界とは、光と陰、良い面と悪い面も含めて世界なんだって。
だから、自分の中に、醜い部分があることを知っておくこと、受け入れておくことが肝要なのです。自分にとって都合の良いことばかりに囲まれていたい、とする欲求は、世界=自分にはなれません、たぶん。
世界=自分よりも今、目の前こそが自分であることに気づこう
でも、こんなこと言っては、元も子もないのですが、別に、いいじゃないですか、世界が自分だとか、なんだとか、どちらでも。そんな面倒くさいこと言わないで、とりあえず、今、目の前のことをやっていくのです。
仕事があるなら、適当にやっていく。家族になにか頼まれたら、とりあえず引き受けて、やってあげる。どうしてもやりたくないものがあったら、やらない。嫌いなものは嫌いのまま。選べるものは選ぶ。どうにもならないものは、どうにもならないまま放っておく。
生きるとは、瞬間瞬間の選択だけかもしれません、やるか、やらないかの。そして、その選択の後に、「やらなきゃよかった」とか「やっときゃよかった」とか、いちいち悩まなくてよいのです。どちらがよかったか、どうかなんて、最後の最後までわからないから。
そういうのを繰り返しているうちに、きっと、その瞬間瞬間の選択自体が楽しくなると思うし、生きることは、ただ、それだけなんじゃないでしょうか。とにもかくにも、ただ、ただ、生きていけばよいのです。
それこそが、神秘体験に頼らずとも、世界と自分が一体になれる瞬間、というより、すでになっている瞬間なのです、たぶん。なので、今日は(というより今日も)、世界と一体になるべく、職場の文句を言いながら、いろいろなことに腹を立てながら、働いてきましたよ。