願望実現したものに触れない理由

願望実現したものに触れてこなかった2つの理由

今日は、ちょっと珍しく、「人生を思い通りに生きる」ってことについて書いてみようと思います。このブログをはじめのほうから読んでくださっている方は、あまり、「願望実現したもの」に触れてこないなあ、と思われているかもしれません。

 

御察しの通りでして、実は、理由が2つあります。ひとつ目は、このブログを始めた頃は、私自身もそんなに自分の願いというものを「自分自身で実現してる」って感覚がなかったことです。まあ、端的にいうとですね、願ったものが叶ってなかったってこと(笑)。

 

で、もう一つ目は、ブログ開設から1年ぐらい経って、「願い実現」っていうものを、それほど重要視しなくなったこと。「どっちでもいい」っていう感覚がさらに強くなったことです。願いが叶う、叶わないより、「穏やかに、静かな楽しみでもって過ごしたい」っていうのが本音であったことに起因します。

 

実現がわかりにくい願いですよね(!)。

 

なので、当ブログは、「こんなこと実現した」とかっていうのはほとんど披露してませんし(できなかった)、たまに、「車替えた」なんて喜んで書いてますけど、それは、たしかに願ったのですが、別に、たいそうに「引き寄せた」と豪語できるもんじゃあ、ありません。

 

ぶっちゃけて言うと、「たまたま」です(人生も、たまたまです・・・)。

全体を観たときに感じる個々の願いの重要性

じゃあ、まるっきり、行き当たりばったりで来たのかっていうと、そうでもありません。やっぱり、人間ですから、「こうしたい、ああしたい」はもちろん、あります。実現したものも、ありますし、そうはならなかったものもあります。

 

みなさんだって、そうでしょう?叶ったり、叶わなかったりで来たはずです。自分の願いってものを、「これしかない」って考えた場合、それは、とてつもなく、大きくあなたに降りかかってきます。悩みの始まりです。

 

しかし、長期的に見たり、人生を全体的に見たりした場合、あなたにとって、その願いは、「今、そこで、その時」に、「叶わなければならなかった」ものなのでしょうか?違うものが来たり、実際は、叶わなくてよかったってこと、いくらでもなかったですか?

 

すべてが、間違った方向で来ましたか?視点を変え、方向性を変えることで、今までは見えなかった世界があったことに気づきませんでしたか?

 

答えは出さなくていいので、ただ、ただ、自身に問うてみてください。そして、こんな感覚でもって日常生活を過ごしていくとですね、ある時気づくのです。「なんだ、全部、これで、よかったんじゃないの」と。

 

その時に、おそらく、世界は変わります(実際は、変わったように見えるだけですが・・・)。一応、感情と思考が納得したい表現を使ってあげるとですね、「願ってたものが、ついに来たか・・・」っていうのも出てきます。

叶う叶わないを論じる意味ってあるの?

「願いに時間は関係ない」っていうの、あるじゃないですか?あれ、額面通りに捉えちゃ、だめですよ。感情と思考は納得できません。なぜなら、私たちは、感情と思考をもつことがデフォルト(あらかじめ、設定された状態)だからです。

 

感情と思考には時間が存在するのです。だから、「時間はない」って言われて、「はい、そうですか・・・?」って悩まなくていいです。そんなの、どうでもいいことですから。無理に、納得させたいのなら、「叶うまで、待とうよ」なのです。

 

それで、願いが叶うかどうかは知りません。でも、待てるのが、本当のあなたなのです。いや待たなくてもいいです。なんなら、潔く、願い自体を変えちゃったりして、テキトーに過ごしてみてください。そのうち、なんとな〜くうまくいきますよ。

 

これは、ちょっと、禅の世界に似てるかもしれませんね(?)。感覚で掴んでもらうしかありません。

 

だから、願いが叶う叶わない、を論じること自体がナンセンス(どうでもいい)です。黒白をつけたがる感情と思考には、絶対に、わからない感覚ですが。これに気づいてようやく、あなたの長かった旅は終わります。

 

今まで、感情と思考は放っておけ、どっちでもいいんだって言い続けて、願いメソッドに触れてこなかったのは、実はこんな理由があったのですよ。決して、私の願いが叶ってこなかったためじゃないんです(本当かよ!)。

「引き寄せ本」が伝えたかったこと

みなさんは、「引き寄せ本」って読んだことありますか?私はたしか、一冊だけ(赤い本だったかな?)読んだことがあります。その中に、こんなことが書いてあったと思うんですよ。「川が流れるように、ただ、ただ、流れに任せていけば、そのうち、川下にたどり着く。

 

人生とは、そうやって、抵抗しないで、流れていけばいいのだ」と。

 

あの本の言いたいことは、私見で言えば、たった、これだけです。心を落ち着かせて、ただ、ただ、ゆったり、静かに、穏やかにいれば、あなたらしい人生になるってだけの話なのです。ほかの、メソッド的なものはあまり、意味がないです。

 

今まで、あなたが一生懸命、メソッドをやってきたのは、感情と思考を落ち着かせる、納得させるためのパフォーマンスだったのです。メソッドに没入しているときは、なかなか気づかなかったかもしれませんが。

 

なので、抵抗しないで、なるように、ならしめてあげる、行き着くところに行き着くようにしてあげれば、だいたい、うまくいくようになっているのです。で、一応言っておきますけど、抵抗しないって、危険が迫っているのに、抵抗しないってことと違うんですよ。

 

自然な湧き出てくる行動に、抵抗しないってことです。やるべきことは、やるってことです。ご飯を食べる、歯を磨く、トイレにいく、よく眠る、みたいな自然にやるべきこと、できることは、抵抗しないでやるのです。

 

そうすると、「あ、これって、やりたいことだったなあ」ってのが、実現してることに(あとで)気づきます。

ゲームは個々の状況と結果で決めるもんじゃない

これは、余談ですが、私は最近、自己実現とか、願望実現とかって、ちょっと、戦略っぽく考えて、楽しんでいるところがあります。今、手元にある資金、考え、視野、視点で、どうやって、実現させられるか、あるいは、どうやって方向性を変えていくか、ゲームみたいな感じ。

 

ゲームなので、まあ、実現できなくても、いいんです。それと、「すぐに上がろうとする」ことを考えないこと。できるだけ、長期的な展望と、多面的な視野をもつこと。これができるかどうかで、そのゲームがつまらないか、面白くなるかが決まります。

 

どんなゲームだって、楽しい方がいいじゃないですか。だから、今ある状況と結果で、ゲーム全体(人生全体)を決めつけないことが肝要です。いかようにも、面白くなる、逆転する要素は、ここ、かしこに存在するのですから。まさに、勝負はこれからなのであります。

 

そういう感覚で、願ってたことが実現すると、とてもうれしいですね。逆に、がっかり感は、あまり感じなくなりました。

 

ゲームはですね、動くのと同じように、待ちの時間もとても大切なんですよ。焦って動いたら、そこで負けちゃうかもしれないんですから。なので、私は待ち続けています(結局、なんにもやってないんじゃないか!)。

 

そんなわけで、令和時代になっても、相変わらず、願いが実現するだのってお話はあまりしないと思います。しかし、「人生、どうにでもなるんよ」っていうのは、気ままに綴っていくつもりでいます。読者の皆様が、少しでも、軽やかなお気持ちになってくれたら、この上なく、うれしく思います。

 

平成最後の当ブログ記事は、このへんで打留めであります。皆さまの、令和時代の幕開け、すばらしいものとなりますように。

 

ありがとうございました。

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