神様より本音が知っている
ビジョンボードを処分した
ついこの間のお話なんだけど、だいぶ前に作った「ビジョンボード」と呼ばれるものを処分しました。
スピをやった人なら、もう、お馴染みのものかもしれませんね。その界隈では有名な方が提唱された、「宝地図」っていう名前の方が認知度が高いかな。
自分の夢とか、叶ってほしい出来事に関連したネット画像や写真を切り取るんです。そして、わりと大きめな、一枚の画用紙にそれらをランダムに貼り付け、自分の顔写真を中央に貼り付けて完成。
あとは、毎日、そのボードを眺めて、潜在意識に染み込ませて、実際に物事が起きるのを楽しみ待つだけです。
潜在意識に染み込むかどうかは別にして、スポーツ選手なんかがイメージトレーニングを使って練習することを考えれば、けっこう、科学的な願望実現法なのかもしれません。
自分の部屋の整理をしていて、タンスの奥の方から出てきたんですけど、「あ、もういいかな」と思って裁断機にかけました。
ビジョンボードの真偽は?
ところで、「やってみて、どうだったのか?」なんですけど、そうですね、その後、いくつか、叶ってました。例えば、家を購入したりとか、気にいった車を手に入れたりとか。
家を購入した経緯は、前に、チラッと書きましたが、ちょっと意外な展開だったし、車は、「あの車、いいな、いいな」と1年ぐらい連呼していたら、ある日、衝動買いですよ。どちらも、お金はなんとかなっちゃってました。
家なんかは、親も援助してくれたし(まあ、自分たちも一緒に住むので)、車も特に不思議な話もなく、自分の貯金から出費。ただ、「買おう!」って、その時に決めただけです。
これが本当に、ビジョンボードから染み込まされた潜在意識のおかげかって言われると、「う〜ん、今、思うと、偶然なのかな?」とちょっと、引いた目でも見られるんですよね。
あ、いや、ここで、ビジョンボードの批判をしたいんじゃないんですよ。むしろ、私は、これを教えてくださった方には、とても感謝してるし、偶然の一致だったとしても、とてもおもしろい展開だったと思っています。
ただ、これって、作っても作らなくても、なるべくして、なっただけっていう視点も、一応、持っといてもいいのかなって思ってるんです。ビジョンボードは、なんていうか、叶った理由を後から、それっぽく付け足すための材料だったっていう。
実現が決まっているからこそ、興味が向くのではないか
つまり、私たちは、もともと実現できるものがあらかじめ決まっていて、実現できるからこそ、そういうビジョンボードに興味が向いて、叶った理由を意識的に、劇的に、納得したいだけなんじゃないか、って思うんです。
「やっぱ、スピすげぇ、潜在意識万歳!」と。要は、自分の信じたいものを、信じるってやつですね。スピにのめり込んでた時は、視点がそれしかなかったから、私も、多分、そうやって信じたかったし、これやってれば、大丈夫って思いこみたかったんじゃないかな。
神様より本音が知っている
逆に、叶っていないものだって、そりゃあ、あるんですよ。私も結婚は一応、望んでいるんだけど、ビジョンボードではダメだったみたいです(笑)。ただ、これも、「それって、今、本当に必要なの?本当に望んでる?」って言われると、う〜ん、たしかに、返答につまる。
「まあ、あの、どっちでも・・・、本気で好きになれるか、いやいや、そもそも、こちらを好きになってくれる人なんていないだろうし。。。今の方が楽かもしれないし・・・」なんていう、曖昧な本心(?)がでてきてしまいますしねぇ。(「自信がないだけだろ!」って言われると、グウの音も出ないですけど・・・)
これじゃあ、いかに、神様にお願いしても、聞き入れてもらえませんよ。自分の本音っていうのを、正直に探ってみると、こんな感じなんですから。
そう、ビジョンボードよりも、そして神様に拝む前に、自分の本音を素直に観てみた方が早いかもしれない。ただ、その「本音」とやらも、結局のところ、どんどん、移り変わっていくものですよ。今は、周囲の環境の変化も早いし、何が起こるかわからない。
そんな変化に乗じて、私だって、ある日、突然、電撃結婚があるかもしれない(笑)。もし、叶ったら、「そういえば、昔、ビジョンボードにイメージ写真を貼り付けていたなあ」なんて、勿体ぶって、懐かしむかもしれません。
だけど、それは、「なるべくして、なったんだ」っていう異なった視点を一つ、持っておけば、スピとか、あるいは特定の思想を崇める必要もないし、仮に叶わなくても、「まあ、本当は、望んでなかったんだね」で済ませられますよ。
これぞ、本当の、精神の自由というものです。どこに向かっていくかもしらないけど、何か、途中で、面白いこと、あったらいいね、ぐらいの気持ちで生きていった方が、楽に、しかも、ちょっと違った意味でワクワクもできます。
スピも、本音とやらも、どんどん変わっていくので、まあ、私たちも、それに合わせて、どんどん、それなりに変わっていったり、時には、立ち止まったりして、とりあえず、今日もテキトーに生きていけばいいと思います。
死ぬまではとりあえず生きる、それが一番の真実だと、思っています。