願望が叶うか叶わないかで人生決めちゃう?
結局、願望は叶わない
前回の記事で、ビジョンボードを処分したと書きました。これに関連して、「願望」というものについて書きたいことがあったので、ちょっと、披露してみます。あくまで、「偏見」ということで、「そんなもんかな〜」という感じで、流してください。
願望というものは、本当に人間の心を揺らすものです。私も「人生を思い通りに、なんでも、夢が叶えられたら、さぞかし素敵だろうな」と思って、いつの間にやら、自己啓発やらスピリチュアルやらにハマったものでした。
ところが、やったことがある人はわかるように、やれば、やるほど、叶わないものが出てきてしまいます。いや、正確には、「叶っていないものにどんどん焦点が合っていってしまう」というのが本当のところでしょう。
「願望」というものを「叶えよう」とした時、大抵、ついてきてしまうものがあるからです。「叶わなかったら・・・」という不安や焦り、不快感。そういう、もれなくついてきてしまうものがあるからこそ、「願望」なんですね。
よく、「願望(=叶えたい)」であるからこそ、いつまで経っても、願望のまま、実現する(つまり、叶わない)のだって、言われます。そう、不安や焦りは、そのまま現実化する。そして、願望とは、不安や焦りがつきもの。結局のところ、叶わないものが「願望」だっていう構図ができてしまう。願望は、叶わないんだ。
願望は叶えるもんじゃない
そうすると、今度は、「じゃあ、不安や、焦りをなくして、もう、叶ったように振る舞う、そういう気分で毎日、暮らそう」っていう理論が出てきます。いや、これは、至極、真っ当な意見だと思う。もう少し、高度になると、「願ったら、忘れてしまおう」っていうことも、言われますね。
でも、これって、仮にそれが実践できたとしてさ、もはや、「願いって、叶えるもんじゃなくね?」って、なりません?願って、忘れるって・・・。もはや、そんなの、テクニックなんかじゃないですよ。
「おまえさ、願望なんかね、どうにもなんないの。」って言われてるのと同じことことじゃないの?私は、あるとき、そう感じました。叶ったように振る舞うっていうのも、毎回、毎回、そんなことしていたら、いつか、焦りにつながっていくに決まってる。
こんな結論に至った時、「あ、そうか、結局のところ、どうにもならないので、『こういうことが起きたらいいな』っていう程度にしとけばいいんだな」って、妙に納得できた。もうちょっと、早く、辿り着きたかったけど(笑)。
楽しむか、楽しまないかは気づき次第
「で、そういう風にしたら、願い、叶った?」って、多分、聞きたくなると思うけど、それに答えるなら、叶ったり、叶わなかったり。「じゃあ、結局、人生、楽しめないね」って答えが返ってきそう。
うん、確かに、「すべての願望を叶えてナンボ」の生き方だと、そうなってしまう。しかし、そこに、視点と目的を置かなけいようになると、違った楽しみ方があることに気づける。叶わないものもあるけど、焦りや不安が少ない生き方。これって、一見、とっても地味に見える。とても、退屈そう。
でも、やってみたら、とても心地いい。だって、もはや「叶わない」から焦点が外れているから。無理して、外してるんじゃないですよ。勝手に外れていく。で、さっき、「願いは叶ったり、叶わなかったり」って言いましたけど、人生、そんなに叶わないことばかりじゃない。叶ってるものだって、たくさん、あるじゃないですか。どんなに些細なことだって。
「叶ったり、叶わなかったり」を悲観的にみるとしたら、それは、ただ、悲観的に観てるだけなんです。叶ってるものがある。これは、すごいことじゃないですか。
暮らしを楽しむか、そうじゃないかは、結局のところ、「気づくか、気づかないか」に集約されてしまう。そう、願望が叶うか、叶わないかじゃないのです。
「すべてが、自分次第。」この言葉、自己啓発でもスピリチュアルでも、よく聞いたものでした。これは、本当です。ただ、前提を違えると、その後の人生の楽しみ方が変わってきてしまう。これ、「願望を叶えるかどうかは、自分次第」って捉えると多分、辛くなるんじゃないかな。
そうじゃなくて、「『願望が叶うか、叶わないかで人生を決めてしまうのは、あなた次第』」ってことだったなって、今は、思います。
もちろん、願望を叶え続ける人生も、それはできる人は、とっても楽しいと思います。でも、「叶ったり、叶わなかったり」で辛いと感じるなら、ひとつ、視点を変えた楽しみ方があるということも、知っていていいと思います。