楽しく生きる必要がなくなったとき、心地よさがやってくる
「楽しく生きること」と「楽しく生きなければならない」は別物
楽しく生きることと、「楽しく生きなければならない」と考えることは違います。両者は、けっこう、勘違いしやすいものです。みんな、生まれてきたからには、楽しく生きようとします。もちろん、それは、間違っていないし、すばらしいことです。
しかし、いつしか、私たちは、楽しく生きていないと、いけないような罪悪感に襲われたりして、悩むことが多いようです。だから、楽しく生きるために、お金が必要だとか、パートナーが必要だ、はたまた、生きがいが必要だとか、なにか、焦って、探したり、手に入れようとします。
しかし、そもそも、楽しく生きていく義務は、ありません。楽しく生きようとして、辛くなるのなら、辛そうに生きてもいいし、イヤダイヤダ言いながら生きても、一向にかまわないのです。
「どうでもいい」の視点から観たら、感情も思考も表面的なもの
私は、ちょっと、前まで暗い顔をしている自分が嫌でした。楽しそうに生きなければ、楽しい現象も起きないだろうし、つまらない人生になると思い込んできました。しかし、それが、どうでもよくなったときに、気付いたのです。「そもそもの、前提が間違っている」と。
楽しく生きなくてもいい。楽しそうに生きなくてもいい。
暗い顔をして、やつれた顔をして歩いている人が、その瞬間、どのように思っているのか、その人でなければわかりません。眠い、疲れたと思いながらも、「そんなことは、どうでもいいい」と感じているかもしれません。
楽しい、辛いという前提を疑ってみましょう。それは、ただ、そのように思っているいだけかもしれないのです。人の顔と同じように、思考や感情も、表面的なものに過ぎません。ネガテイブなものを感じたとしても、それを問題ないと感じているなにかがあるはずです。
だからこそ、その時々の状況によって、なにを思っても、なにを感じても、全然、問題ないのです。楽しく生きる必要がなくなったとき、表面的でない、楽しいというよりも、静かな、穏やかな心地よさを感じることができるでしょう。
そして、それこそが、いわゆる「救い」かもしれません。