嫌がらせで気づいた!感情や想いとは別の自分がいるってこと

嫌がらせには無視し続けた

自分にとって嫌なこと、不都合なことというのは、そのことについて感情移入したり、過去の経験とつなぎ合わせなければ、たいした問題ではなくなります。

 

私は、近所住民に執拗な嫌がらせをされた経験を持ちます。外出するとき、外出から帰ってくるたびに、大きな物音をたてられたり、じっと眺められたりしました。

 

気のせいといえば、それで済ませられるのですが、当人が嫌がらせだと思い込んでしまうと、なかなか気のせいとも思えません。当時は、私も潔癖というか、白黒はっきりつけないと気が済まないタチだったので、嫌がらせした人間に怒鳴ったことがあります。が、それは、やはり、逆効果なんですね。

 

やめるどころか、執拗に受け続けたので、「ああ、この方法はダメなんだな」と思い知らされました。そこで、無視し続けることにしたんです。一応、ハラワタは煮えくり返っていたのですが、平静を装い続けました。ただ、装っているので、動揺していることが、ちょっとしたしぐさに出てしまうんですね。

 

たとえば、外出するときに、もうすでに、近所から見られていると思い込んでいるので、車のドアの開け閉めが不自然だったり、行き先を間違えたり。

 

そういうのを見て、嫌がらせをするほうも、楽しんでいるわけです。私は、けっこうプライドが高いので、動揺を見透かされるのが嫌でした。「次は、うまくやろう、次は、動揺しないぞ」って、そんなことばかり、考えていたのです。

無視し続けるといい意味で鈍感になる

しかし、数年同じこと続けているうちに考え始めました。というより、めんどうくさくなったのです。次第に、「別に、動揺しているのがわかっても、問題ない」と思うようになっていきました。実際に、たいして問題ないのですよ。

 

だって、外出しようと思えば、ちゃんと外に出られるし、動揺して行き先を間違えたって、あとで修正できれば、それで良いわけです(もちろん、外に出られない、パニックになるようなら、それは、それで、しかるべきところに相談なり、助けを求めることは必要です)。

 

そうやって思えるようになると、少しずつですが、変化が起きてきました。相変わらず、不自然な動作をするのですが、徐々に気にならなくなるのです。嘲笑されれば、頭にきますが、割と早く、気持ちの切り替えができるようになります。

 

すると、嫌がらせされていても、だんだんと、自身の反応が鈍くなっていきます。心が鈍感になっていく感じですね。「あ、なんか、音したな・・・」それで、終わるのです。

 

鈍感になるっていうと、悪いイメージかもしれませんが、嫌がらせをされる人間っていうのは、敏感になりすぎているのですよ。スピリチュアルにはまってしまう人も、おそらく、敏感な人が多いような気がします。

 

だから、目に見えなくても、何かの気配を感じたりとか、そういうことが頻繁に起きるのかもしれません。なので、時と場合によって、オン、オフを切り替えらるといいですね。もちろん、敏感さは大事な時も多々あるので、やっぱり、バランスが大事でしょう。

感情や想いは自分ではないことに気づく

話戻しますが、動揺しても問題ないことがわかるようになると、人がもつ、感情とか、想いというのは、自分であるけど、同時に自分ではないことがわかってきます。

 

自分でないのなら、別に、放っておいてもよいもの、あってもよいが、別に、関わる必要もないのです。そうやって、考えていくうちに、嫌がらせは減っていきました。

 

スピリチュアルにはまったり、真剣に物事を変えようとする人は、敏感であったり、人に気を遣いすぎたり、心ない人の言葉を気にし続けたりするものです。しかし、そういう人たちは、ある時、気づきはじめるようです。感情や想いに、とらわれないでいられる、なにかがある、と。

 

そのなにかがあることに、気づいたとき、少しずつですが、変化が起きていくと思います。

 

 

Follow me!