高校時代の「トラウマ」に思いを馳せてみた。
今と昔の悩みは同程度
今の生活は、一時期よりもずいぶんと穏やかで、豊かなものになっている。ありがたいことです。にもかかわらず、「悩み」といえば、悩みかな?と言えるものも、まあ、それなりにあります。
例えば、「今は、週4のパートだけど、もし、一緒にいたいと思うような人が現れたら、慣れた今の仕事で、もう一度、正社員になって、家庭を築く準備をしたほうがいいのかなあ?」とか。「いやいや、もう、労働は嫌だし、もう、新たな家族はいいじゃないか。あと、もう少ししたら、週3労働にして、もっと、のんびり、気ままにやっていくぜ。」など。
これから、実現するかどうかもわからない未来を妄想しながら、「これから、どうするかなあ?」とあれこれ、考えを巡らすことがあります。これって、当事者でない人からみたら、正直言って、どうでもいいことですよね?「そんなん、そうなった時に、考えりゃ、いいことじゃねぇか。」
目下の悩みが「悩み」と言えるのかどうかは、人それぞれの主観により、程度が低いのか重いのかも、意見が別れるところでしょう。私の場合に限っていえば、昔と今の悩みを比べても、大して、程度の変わらない悩みです。もっとも、それは、今だから、言えることではありますが。
赤面症に泣いた高校時代
私は昔、ちょっと、思春期が遅かったせいなのか、よくわからないんだけれど、高校生の頃、「赤面症」で悩んでました。もう、何が原因だったかはよく覚えていないんですが、女の子と話す時に、顔が赤くなるようになってしまって、そんな自分が嫌でした。
そのうち、クラスメイトがその現象に気づき、クスクス笑うようになりました。特に、女の子にね。ひどいのは、そっとして置いてくれればいいのに、わざと自分の顔が赤くなるようにしむけるんですよ。ほんと、イケスカナイ奴らでしたね(笑)。
そういえば、ちょっと前まで、当時のクラス同窓会のお知らせが来てました。「みんな、自分が当時、クラスのことをどう思っていたかなんて、忘れてるよね?」と、通知はがきを見るたびに、複雑な思いになりましたよ。
間違っても、同窓会には行きません。恨みはもう、ないです。でも、当時の同窓生たちとは、誰とも会いたくありません。いろいろ勉強したつもりだったけれど、やはり、聖人にはなれなかったので。ちなみに、1年半ほど前に引っ越したので、葉書はもう、届かないはずです。
話が脱線してしまいました。プライドが人一倍高かった私は、そんなクラスメイトたちを毛嫌いするようになり、もう、用事がある時以来、誰とも、話すことをしなくなりました。多分、担任の先生も知っていたと思うなあ。でも、何も、言わなかった。もちろん、それを「いじめ」だと認めたくない、自分もいました。
ただ、担任が気を遣ってくれていたのは、よくわかりました。なので、特に、誰かを責め立てようともしませんでした。高校3年生の時だったので、大学受験を控えていたし、ことを荒立てたくなかった。もちろん、気弱だった私に、そんな勇気もなかったのだけれど。
毎日、学校行くのは嫌だったけど、当時の私は、成績がまあまあ上の方だったので、受験は一般受験ではなく、面接だけの推薦枠を狙えました。早く、ここから抜け出したい一心で勉強を頑張りましたね。まあ、勉強自体は好きで、知らないことを知るのは楽しかったっていうのもあったんですけど。
好きな人に赤面を笑われる
1年間を耐え、無事、大学も入学しました。これで、終わったと思うでしょ?でも、なんと、高校3年の時の、私の赤面症を知る人物がいたんですよ、それは、私が、中学生の時に好きだった女の子。学年でも1位、2位を争う可愛いさで、明るい子でした。とても人気がありましたよ。
実は、大学受験の当日に、偶然、受験番号が1番違いで、その娘と再会したのです。いや、もう、「これは、ドラマか?」と思いましたよ。お互い、再会に驚き、受験後、なんとなく、一緒に帰ることになりました。
嬉しかったなあ。「じゃあ、大学入ったら、よろしくね!」って言ってくれて、「あ、いや、こちらこそ…」ってドギマギして、別れました。後に、彼女も、私のことを中学の時、好きだったと聞きました。もちろん、それを聞いた夜は、眠れないほど、嬉しかったですねぇ。鼻にもかけてもらえていないと思っていたので。(あ、いや、これは、確かなんですよ、同級生から聞いたんで)
赤面症がなかったら、私と彼女は、もしかしたら、今頃、一緒に暮らしていたかなあ、って思うと、今でも胸がキュンとします。もちろん、そんなの、妄想でしかないけど。で、お互い、無事、大学入学して、入学式の時、どこかで会わないかなあってキョロキョロしてたら、後ろの方から声がしました。
聞き慣れた彼女の声でした。後ろを振り向こうとしたんだけれど、その後すぐに、「あ、あれ、あの人。なんか〜、すぐに顔が赤くなっちゃうんだって。かわいいよね〜」っていう会話が聞こえたんですよ。
多分、先に話した、「あいつもお前のことが好きだったの、お前、知らなかったの?」っておしえてくれた同級生あたりから、話が漏れたんだと思うな。そういう情報って、何故だか、回るのが早いんですよね。世間とは、ホント、狭いものです。
向こうは、誰か、同じ高校の友達と入学したみたいで、その子と2人で入学式に来てたみたいでした。その一言で、私は、振り返ることができなかった。式が終わると、そそくさとその場を離れました。「ああ、そうか、彼女も、人の欠点をばかにするやつだったんだ…。」って、ひとり、悲しくなった。
もちろん、これは、私の思い込みでしかなく、彼女が私をばかにして言ったのかどうかは、わからない。でも、当時の私に、そんな考えを巡らす余裕はありませんでした。
「好きな人が私をばかにした。」起きた現象をその一言にまとめ、記憶に仕舞い込んでしまったんですね。その後、1回だけ大学構内で彼女を見かけたんですけど、どうしても、声をかけることができなくて…。ああ、今、思えば、何にも思っていないフリをして、声ぐらいかけてもよかったですよ。
顔が赤くなることなんて、大したことじゃなかったのにねぇ。私の人生もずいぶん、変わってたかもしれない。学生らしい、なんとも、苦い思い出です。
結婚しないのはトラウマのせいじゃない
これ、今でこそ、笑って話せる思い出だけど、当時は、本当に悩んでたんですよ。ちなみに、顔が赤くなる現象は、今でもありますし、もう、特に気にはならなくなりました。気にする年齢をとっくに、過ぎてしまったってこともありますが。
今も、独身でいるのは、赤面したことをクラスの女子や好きだった子に笑われたトラウマからだ、とスピにハマっていた時はもっともらしく、思い込んでいましたよ(笑)。
でもね、仮にそんなトラウマがあったとしても、今、結婚しないのは、自分の選択です。だって、本気で結婚したかったら、きっと、お見合いでも、あるいは、婚活アプリとかを使ってでも、活動してるだろうし。
「今、結婚をしない、お付き合いもしない」っていうのを「そういう理由で、できない」って思いこんだのなら、それも、やはり、自分がそのように決めてしまったってことです。自分には、その本気度がなかった。ただ、それだけなのに。
それを、誰かのせいにする、過去のせいにするというのも、自分の選択。スピから距離を置いてしばらくしてから、ようやく、そのことがわかりました。ちょっと、話がずれてしまった感がありますが、時間が経った時、赤面症は治らないけれども、どうでも良いことになった。悩みとは、そういうものなんだ、とどこかで、明らめることができたようです。
そうしたら、色々なことで応用できるようになりました。近所トラブルにしても、仕事、その他、もろもろについても。だから、今、悩んでいたとしても、それは、変化していく。解決はできなくても、自然消滅するかもしれないし、どうでも良くなっていくかもしれない。悩みとは、まさしく、ただ、悩んでいるだけであり、それを一大事にするのは、他でもない、自分自身なのです。
どうでもいいから、選択するまで悩めばいい
私の赤面は治らなかったけど、どうでも良くなったように、それをクセみたいなものとして、放っておけば、別に、どうってことない。悩みとは、そういうもの。いずれ、変化していく。冒頭の私の悩み(と言えるか?)も、ただのそういうクセです。暇な時に、ちょっと、湧き上がってくる、クセ。時が経てば、いずれ、何かを選択し、結果が現れる。それまで、悩んでいたらいい。
だから、心配いらない。もし、タイムマシーンがあって、高校時代の自分に会えたとしたら、言ってあげたい。「心配すんな。今のことは、必ず、どうでもよくなる。それまで、今のまま、できることをやっていけば大丈夫だから。」と。
あやふやに心地よさを見出す
昔、誰だったか、「未来は、変えられないが、過去は変えられる」と言った人がいました。考えてみれば、過去だけでなく、未来も、そして、今でさえも、あやふやで、まったく、「これだ」と言って、保存しておくことはできないものです。
保存したつもりになっているだけ。その証拠に、過去は記憶違いの多いこと、多いこと。そして、未来は、多少の違いはあっても、全てが望んだ通りになることは稀。「これが自分だ」と言っている心さえ、信用ならない。だからこそ、あっち行ったり、こっち行ったりしながら、とりあえず生きていけばいいと思っている。
そして、あやふやなものだからこそ、のぞみ通りにならなくても、それなりに、その時に応じたふさわしいものはやってくる。たとえ、失うものがあったとしても、失うにまかせれば、やがて、また、得るものがあるかもしれない。
あやふやとは、ありがたいものです。そして、それを眺めていられる、穏やかで、静かなものは、一切、変わらず、ここに、ある。こう、感じられると、きっと、「思い通り」というのは、それほど重要なものではなくなる。生きる上で、確かなものがあるとすれば、あやふやな時に感じる、穏やかさ、心地よさなのではないか。
そして、「悩み」と定義する概念は、必要だろうか?悩みって、決めなければ、それは、ただ、そこにあるだけなのではないのか?悩むたびに、そう思う、今日、この頃です。