目覚めた後の世界観に寝ぼけが回答する

心地よい感覚を持続させる必要なんてない

そろそろ記事のネタが切れ、「ブログ、どうしようかなあ?」なんて思っていたら、読者の方からメールをいただきました。ありがとうございます。

 

「目覚めの体験があり、自分の眼の前のフィルターの目詰まりが取れて、世界が普通に見えるようになった。だけど、しばらくすると、また、元の(苦しみの)世界に戻ってしまう。この目覚めた後の世界観を持続させるには、どうしたらよいか?」という内容でした。

 

で、私の返信回答は、グダグダ能書き並べてみましたが、「結局のところ、目覚めた後の世界観、心地よい感覚なんて、所詮、思い込み。経済景気と一緒で、長くなんか続かないし、維持する必要もないので、そのまま放っておけば・・・」というちょっと、冷たいものになってしまった感じです。

 

ただ、質問者様は、とても繊細かつ聡明で、かなり勘どころに優れた方でした。「放っておけることはわかっていても、なにかに囚われた時に、そればっかり、気になって、なかなか思うようにできない」とのこと。

 

まあ、ここは、ごくごく人間として自然なこと。「わかっているのに、実際は・・・」っていうやつですね。誰だって、なにか気にかかることがあれば、どうしても、そちらの方に向いてしまいます。この方は、たまたま、「目覚めた後の心地よい世界観」とか、「感情とか思考に囚われてしまう自分」のことが気になって仕方ないってことですね。

 

ちなみに、ですが、「放っておく」っていうと、「放っておくメソッド」みたいに捉えちゃう方ってけっこう多いと思います。でも、「放っておく」とは技じゃないし、メソッドじゃありません。質問者様のケースで言うなら、気になってしまうことも、大いに、気にしたままでいようよ、っていうのが放っておくことです。

 

ここの部分については、自分でいろいろ、試してみて、苦しんで、気づいて、また、実践して・・・の繰り返しで感得、体で感じていくしかないと思います。「求めよ、さらば、与えられん」(でしたっけ?)っていう言葉があるように、求め続ける、試行錯誤を続ける人のもとには、必ず、糸口が見つかるものです。

 

幸い、理屈はわかってらっしゃるので、体感も時間の問題ではないでしょうか。以下、その糸口が見つかるまでの間の過ごし方を書いてみようと思います。

一時的にスピリチュアルに頼るのもあり

とても繊細で、どうしても感情と思考の渦に飲み込まれてしまって、どうにもならない場合には、どなたか、信頼できるヒーラーさんとかを頼って、そういった感情を軽減してもらうのもありだと思います。

 

私は、スピリチュアル一辺倒に偏るのは好きではありませんが、そういった自分ではどうにもできないものを正しく軽減させ、依存させないように導く方も見てきました。

 

なので、一時的な救済手段として、スピリチュアルカウンセリング等に頼るのは、悪くないと思います。現に、私自身がそうやって、助けてもらいましたので。ただし、くどいようですが、ある程度軽減されてきたら、自分自身の力を信じて、独り立ちを意識しましょう。

運動は絶対といっていいほどおススメ

あとはですね、感情と思考に飲み込まれる場合の対処法として効果的なのが、極力、外に出て、運動することです。思考と感情が紛れるのは、やはり、身体を使っている時です。無になれる瞬間も、一時的ですが、味わえるかもしれません。

 

私のおススメは自転車ですね。スピードの速さによる爽快感が手伝うのか、新たな気づきがふと湧く瞬間が何度かありました。まあ、気づきとか、瞑想とか、そんなことは考えないで、純粋に、体を動かすことを楽しんでみてください。

 

ちなみに、外に出るのは、家の庭じゃあまり効果がないと思います。

 

とにかく、街中でも、自然あふれる郊外でもいいですから、家から離れるといいです。切羽詰まってる時の考えは、やっぱり、余裕のない結論になりやすいです。家の中であれこれ考えるよりは、そういうのを放っぽりだして、とにかく外に出ましょう。

 

離れることで、よいアイディアが、違うところから生まれてくるかもしれません。

災難に遭うときは災難に遭うべし

スピリチュアルな助けとか、運動したりしながら、不遇な時代に、私自身が励みにしていた言葉があります。それは、禅僧の良寛さんが言ったこと。

 

「災難に遭う時は、災難に遭えばいいでしょう。これこそ、災難を逃れる妙法なのです」(原文と正確ではないこと、お断りしておきます)

 

良寛さんは、たしか、(新潟だったと思いますが)大きな地震に遭遇していて、身の上を心配してきた知人に、手紙でそんな返事をしたそうです。

 

災難にあった時はジタバタしないで、身を任せましょうっていう意味で捉えてもいいし、逆に、ジタバタしたっていいのです。

 

なにもしないのもあり、なにかして、もがくのもあり。「これも学びだ」と静かにいようとするのもあり。どれが正解なんて、人間の器では、所詮、わからないものなのです。だから、とにかく、どんな形でも生きる!

 

とりあえず、生きていると、物事が進んでいきます。

心地よいものだけを得ようとする悟りと目覚めの誤解

なぜ、良寛さんのお話をしたかといえば、みんな、悟りとか、目覚めとかを求めるあまり、そういった、心地よさを想定した世界観を「絶対の善」として、疑いもしなくなる、と感じたからです。

 

「心地よさを求めるのことの、どこがいけないんだ?」ってなるかもしれませんが、心地よさに執着すると、反対である不快とか、苦しさとかが極端に際立つようになります。

 

不快と苦しさは私たちにとって、嫌なものですが、存在してはいけないもの、ではありません。それぞれ、役割があるので、むしろ、必要なものです。不快さは、私たちに「心地よいとはなにか」を教え、そちらのほうに導く羅針盤となってくれます。

 

苦しさも、「あなたのやり方は間違っているのでは?」という、いわば、生き方センサーのような役割があります。

 

心地よさも苦しさも、どちらも、同等の役割と必要性を認めることができて、はじめて、私たちは、この世界を肯定することができ、ようやっと、長く、深かった迷路から抜け出します。なので、私自身は、悟ること、目覚めることが「心地よいものだけを得る」という枠に止まるのであれば、そんなものは、求めないほうがいいと思っています。

 

もし、本当の穏やかさ、心地よさっていうのがあるとすれば、繰り返しになりますが、それは、今この世界に存在する、すべてのものにOKを出せることです。すべてのものにOKを出せれば、自分自身にもOKを出すことができます。

 

つまり、自分をも肯定するので、矛盾しているかもしれませんが、「あれが嫌い、これは嫌だ」ってはっきり認められるのですよ。このへんの感覚、うまく伝わってるでしょうか?これができて、私たちは真に、自由になるのです。

 

私たちは通常、嫌いなもの、苦しいものを自分の目の前から消すことが善だと思っています。でも、それだと、もう経験済みでしょうが、苦しいのですよ。しかし、ネガティブなものでも、肯定すると、気持ちいいんです。

 

「それでいいんじゃないの」

「それでOKだ」

「まあ、いいでしょう」

 

どうです?つぶやいてみるだけでも、身体は心地よさを感じませんか?私達は、あらゆるものを肯定することで、いわゆる、大きな根源に近づくことができるのです。

 

気持ちいいから、嫌いなものは嫌いとはっきりと認め、そこに罪悪感が入る余地はないのです。嫌いなもの、苦しいものでもその存在を認めることができる。否定して存在を消す必要がなくなるからです。

あなただけの生き方基準を体感しましょう

私には目覚めの体験も、悟りの体験もありません。そして、もう、悟ろうとも、思いません。でも、そういう大きな根源にちょっとだけでもいいから、近づきたいと思っています。それだけで、十分です。あとは、この現実世界を、「ああでもない、こうでもない」って悩みながら、生きていくつもりです。

 

どちらにしても、真剣に悩んだり、もがいていると、ある段階から、ふと、道筋が観えて来たり、自分なりの生き方基準が出てきます。質問者様も、そして、みなさんも、その自分の納得する基準をみつけ、体感してください。実生活をあなただけの基準で楽しんでください。

 

その基準とは、もちろん、こんなブログに書いてあることであってはいけません、当たり前ですけれど。今まで書いてきたような、こんな私の戯言、信じちゃあ、ダメです!(笑)。

 

とりあえず、なにをしていても、していなくても、ちゃらんぽらんでも、真面目でもいいですから、今日も1日、生きていきましょう。求めるものは、(形は違うかもしれませんが)必ず、与えられます。

 

相変わらず、まとまりませんでしたが、なんだか、もう、書きたいことは、書いちゃった感じで、ちょっと、脱力気味です(笑)。うまく伝わってると、うれしいのですが・・・。

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