神仏は思考や感情が創りあげた概念
神様や仏様はあなた自身である
お正月なので、初詣に行く機会が多いかと思います。タイムリーな話題かと思い、穏やかな人生を過ごしていく上での、神様や仏様との向き合い方をお話ししてみたいと思います。
神様や仏様を拝む時は、「神や仏とは、自分自身である、自分自身に拝んでいる」ということを頭の隅に置いておくことをオススメしたいのです。
とは言っても、別に、宗教チックで、オカルトなお話にするつもりはありません。むしろ、その逆です。私たちは、小さい頃から、神事、法事を経験します。人が生まれれば、お宮参りに行き、新年を迎えれば、初詣。人が亡くなれば、必然的に、神様や仏様というものがあることを、なんらかの形で、自然に知っていきます。
やがて、思い通りにならないことがあることも経験していきます。進路選択、恋愛、健康、天災・・・。思い通りにならないことがあったとき、私たちは、悔しい気持ちとか、悲しさが湧いてくるの感じます。
悔しい気持ち、悲しい気持ちは、それにどっぷりはまってしまうと、生きていくことが辛くなります。前に進むために、どうにか、しなければならないと考えます。
きれいさっぱり忘れる(忘れたことにする)ことも、その一つでしょうし、趣味や仕事で発散することもあるでしょう。そして、理屈っぽい人は、物事が思い通りにならなかった理由が必要となるかもしれません。その、自分を納得させるのに、有効だったものが、神仏なのかもしれません。
望みどおりにならなかったものを「神の試練」とするのは勝手な思い込み
「神の試練」、「仏の導き」・・・そういう言葉がよく使われます。目に見えないなにかの働きがあることによって、結果的に、自身が望んだ通りにはならない方がよかったのだと考える(納得する)わけですね。
この考え、思考や感情を一時的に和らげるという意味では、よいかもしれません。ただ、望み通りにならなかったことを、神仏の試練と考えると、話が違ってきます。
なぜなら、「神仏の試練」と考えているのは、そう考えている人の勝手な解釈です。だって、本当は、試練かどうかなんて、わからないじゃないですか。現象は、ただ、単に、「物事が、そのようにならなかった」っていう状態があるだけなのですから。
神の試練と考えるのは、明らかに行き過ぎです。そのように考えると、神仏というのは、自分とは別の存在になってしまいます。どこか遠く、または、近くで自分を常に試したり、見守ったりしていて、必然的に、その存在を怖がったり、頼ったりするものに押し上げてしまいます。
それのどこがいけないのか?
もし、世の中が自身の内面の写しと考えるのなら、神や仏も、自身の写しでなければなりません。自身の内面の写しなら、神仏は、自分自身です。神仏が試練を与えてくださったのなら、それは、その人自身が「試練を与えてくださる神様」を映し出しただけなのです。
これって、普通に考えてどうでしょう?私なら、そんな怖い神様、人の嫌がることをする神様や仏様とは関わりたくありません。試練とか、将来のためになるから、とか、そんなこと言って欲しくありません。
神仏は思考や感情が創り上げたもの
内面の写しなんだから、もっと、やさしくて、自分がやることは、なんでも受け入れてくれる神様を創ります。そっちのほうが楽だし、楽しく生きられそうです。ここまで考えるとわかるように、私たちが一般的に言う神様、仏様っていうのは、自身が都合のよいように映し出した、ひとつの概念に過ぎないのです。
その概念に拝んだところで、たいしたことは、してくれないでしょう。じゃあ、初詣とか、七福神めぐりは意味ないのかっていうと、そんなことはありません。
自分が今まで、考えていた神仏は、思考や感情が作り上げたものであり、それは、自分の写しにすぎない。今、自分はその概念の神ではない、「なにか」に拝んでいる、ということを意識できれば、すてきな初詣になるのではないかと思います。
その「なにか」は、思考とか、感情とかが、ふと、止まった時に、一瞬感じるもの。私が経験したことで言えば、ある素敵な女性を見た瞬間に感じた、時が止まって、思考も感情もなにも、感じなかった感覚に近いものです(ただの一目惚れ、と言うオチもありますが!)。
それを意識すると、なにがいいのかと言うとですね、自分は神に頼るような弱い存在ではなくて、神と仏と同じ存在である、ということを意識できるようになれるのです。ちなみに、この場合の神仏は、もちろん、概念の神仏ではなくて、この地球とか、宇宙とかを創り出した、もっと、大きな「なにか」のことです。
それが、あるかどうかなんて、信じなくても良いのです。信じなくても、あることを意識できるようになる。それこそが、神仏に祈ることの大きな意味ではないかと思います。
それで、願いが叶うかどうかは知りません。しかし、世界観は変わります。願いが叶わなくても、どうでもよくなるかもしれません。初詣の際は、ぜひ、そのような意識で行かれてみてはいかがでしょうか。