君子は豹変しまくれ!
恐怖は消せない
剣術でのお稽古は、相手との距離が遠く離れていても、だんだんと、その間合いを縮めていき、相手に刀が届く距離からが勝負であります。
得物(持っている武器)が木刀であっても、相手と至近距離で対するのは、けっこうな恐怖を感じます。人間の無意識的な反応で、ついつい、刀を強く握りしめたり、思わず、体をそらして、隙をみせてしまったり・・・。そんな時は、もちろん、怒られます。
そんな時、どうすればいいんですか?と聞いてみると、先生は、一言、こうおっしゃいました。「恐怖というものはね、消せないんだよ。だから、怖くないように、対処することを考えなさい。」
怖くないようにするには、稽古を通じてよく観察しなさい、とのことでした。相手の刀の軌道がどこを通ってくるのか、この距離間合いなら、刀が届くのか、届かないのか、とか、見極めろってことですね。怖くても、落ち着いて対処できれば、問題ないってことです。
それがすぐにできたら、苦労しないんだけどなあ、と思いつつ、毎回、毎回、稽古に励むのですが・・・。
怖くない状況を創ろう
こんな教訓を日常生活に、強引に当てはめてみるとですね、みんな、人間ですから、無意識の反応ってのはいろいろあるわけです。喜怒哀楽を持つ私たちです。瞬時に、環境、状況によって反応してしまうことは、生きていれば、たくさん、あるものです。
通常は、みんな、こういった感情なんかを消すことや、心地よいものに変換することばかり考えてしまうものです。もちろん、それができるのなら、そういう方法もありですよ。しかし、それでうまくいかない場合もあるでしょう。
そういう場合は、もうひとつ、視点をもってみるといいです。
上の例で言うなら、怖くない状況を自ら創り出してみることですね。たとえば、その場から、逃げて、違う環境に身を置くっていうのも方法です。そもそも、そういうのを感じないですむ環境から抜け出すっていうのは賢明な手段であります。これは、ほかの感情も一緒。
それができない場合は、その感情を感じさせるもの(状況)は、一体、どういう時に、反応してしまうのか、を観察してみることをお勧めします。
望まない状況に、どうしても、身を置かなければならないとき、たとえば、ひきこもることで、身の安全が確保されると思うのなら、それもひとつの手段なのです。それで、とりあえず、感情の安定が保たれるのなら、それは、合理的な行動のひとつです。
状況によって、いくらでも手段を変えて生きていけばいい
次にどうするかは、また、状況とともに、考えていけばよいのです。私なんかはですね、目にしたら不快に感じるものは、好き好んで見ない、という手段をよくとります。嫌いな人とは目を合わせませんし、その場にいないものとして扱うことがよくあります。
いかに、大人気ない、レベルが低いと言われようと、嫌いなものをみないことで、嫌な思いをしないですむのなら、そのようにします。気分良く生きるっていう、私なりの方法です。
似たような話として、「現実逃避はよくない」って言われるけど、たしかに、それは長期的に見ればよくないと思います。しかし、一時的なら、ありです。今、身の危険があると思っているのに、その状況では唯一かもしれない手段を閉ざしたら、ほかに、どうしろっていうんですか。
今、必要な、そうしなければならない手段だってあるのです。だから、スピリチュアルも、一時的な手段として、ありだと肯定するのです。
ちょっと、熱くなっちゃいましたけど、まあ、要するに、合法的なら、どんな手段を使ってもいいから、生き残ることを考えて、時節到来をまつ、時には、打って出る、いろんな方法があるってことを知っておくことは大切なことだと思います。
人生、これひとつ、って決めつけて、視野と選択を狭くする必要はないです。君子は豹変すって言葉があります。悪い意味で捉えられることもありますが、私たちは、状況によって、いかようにも豹変し、楽しく気楽に、やっていこうじゃありませんか。
神社仏閣なら、厳かな心で敬虔に、会社にいるのならさぼりながらテキトーに、夜のお店でなら、それらしくムードたっぷりに(?)。人にはいろんな顔があるのと一緒です(?)。
まあ、とにかく、状況によって私たちは、いくらでも変化できる面白いイキモノです。そうやって変化し続けていくのを見ては楽しみ、自分がやってみて楽しむ。それが、生き残ることの策であり、醍醐味であります。
なんか、冒頭と少し、話がずれた感がありますが、ま、別に、いいですね・・・。