エゴはただ聞いておけばいい

エゴは放っておく

エゴ(自我)と呼ばれるものについて書いてみたいと思います。

 

心のなかで、絶えず、おしゃべりをしている自分、自分のことを自分だと思っている自分、周囲や自分自身のことに反応し、いつも判断している思考とかのことですね。ここでは、あんまり、定義みたいなことは避けたいと思います。

 

私自身、よくわからないですし、言い訳をすると、正直、どっちでもよいことですので。まあ、そういう、心の声について、スピリチュアルなんかでは、同化しないとか、眺めるとかっていう方法で、距離を置くことを勧めています。

 

私も、この方法はとても有効だと思います。特に、怒りが湧いて来た時、瞬時にそのまま表現しちゃうと、いろいろ不都合が出ますので。人間関係がおかしくなったり、問題がややこしくなったりして。

 

怒りの感情が湧いて来ても、ワンクッション置いて、放っておく。すると、その場限りで、感情は流れていくので、何事もおこらず、すぐに、平安な状態が戻って来ます。もちろん、あえて、ことを起こして解決するというやり方もあります(そういう意味で、怒りというのは、決して悪いものじゃない)。

 

でも、面倒臭いのが嫌いな私には、ちょっと、使いたくないです。あとが大変なので。怒りって、制御がむずかしい、慣れないうちは。自分自身が培って来た正義感とか、常識みたいのがあるから、どうしても照らし合わせちゃうんですよね。自分の基準に対して、他人の基準は間違っていると思ってしまうので。

あなたの生き方と他人の生き方は、その基準が違うだけ

でも、単に、基準が違うだけの問題。ただそれだけだと思えるようになったら、だんだんと、ちょっとやそっとのことでは、腹が立たなくなります。

 

ちょっと前までは、私は特に、人の不正行為というものが許せなかった。みんな正しく生きているのに、どうして、そういう生き方ができるのか、腹がたってしかたがなかったのです。

 

しかし、不正を行うのは、当人の問題。基準は確かに、(常識的には)まちがっているかもしれないけれど、自然に反した生き方なら、いずれ、矯正されていくだろうと思うようになったのです。

 

矯正されるきっかけが私でも良いのですが、私自身にも、「のんびり生きたい」っていう指針があります。なので、あえて、その役を買う必要はない。その役は私ではない、と考えています。

 

みんないろんな基準で生きているけれど、はたから見て間違っていたとしても、その人には、それを行うことで、後に気づくなにかがある。そういうことだと思います。私たちは、私たちの(現在の)基準で生きていく、それだけでよいのです。他人にかまっている必要はありません。

 

そして、自分自身の基準というのも、正しいものではないかもしれないのです。ここに思いを馳せておくのはけっこう大事。だから、お互い様。こんな風に思えると、生き方がすごく楽になります。

怒りを放っておけると、大事なときに自己主張できるようになる

そして、湧いて来た怒りは放っておけるようになると、逆に、大事なときというか、「ここはしっかり言っておこう」っていう時に、しっかり自己主張ができるようになりますよ。

 

私が感情を出すときは、剣術稽古の日は残業しない、という労働条件が守られていない時(そんなわがままな条件、あまり聞いたことないでしょうが)。そういう時は、職場に対してしっかり、主張します。

 

もちろん、穏便にです。ただ、根が正直なので(!)、怒りや不満はすぐに顔にでるそうです。よく言われます。でも、いいんです、それで。自分の生き方に対する「侵害」には、しっかり、態度に出して、怒っても良いんじゃないでしょうか(普段は、はいはい、聞いている小心者なんですけどね)。

エゴもただの風景である

今日は、別に、怒りの制御について書く予定ではなかったのですが、ここで言いたかったのは、エゴ(心の声)はできる限り、外に表現する前に、ワンクッション置いた方が良いということ。

 

特に、怒りの感情が湧いて来たときは、放っておいて、流れていくのを待つ方が楽に生きていけます。感情というのは、すぐに過ぎ去っていってしまうものなので、後から振り返れば大したことではなくなります。

 

そして、それができたら、もう、それ以上、エゴとか自我とか、心の声とか、あんまり深く考えないことです。エゴを悪いものだと決めつけてしまう必要もありません。なぜだか、わからないけれど、心の声がある。それだけです。まわりの風景みたいなもの。それは、それで聞いておけばよいのです。

 

ただ、その声の通りに表現するかどうかは、ちょっと、置いておきましょう。そうすれば、適切なときに、適切な感情表現や行動が、自然とできるようになります。そのときに、もしかしたら、エゴのありがたみというか、エゴは決して悪者ではない、ということが分かるかもしれません。

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