「エゴ」っていうのはただの概念だ!

エゴはコントロールするより放っておく

スピリチュアルなんかでは、自分のことを「これが自分自身である」と認識している意識を「エゴ」なんて言っていますね。「自我」とも読んでいます。ものごとを自分の都合よく動かすには、この自我をコントロールするのが大切とか、自我が感じる怒りや’悲しみ等と同一化しないようにしようってよく言われます。

 

まあ、物事を自分の都合よく動かせるかどうかは別にして、怒りや悲しみ、憎しみ、恨みなどの感情と同一化する(つまり、のめり込む)と、周囲の状況が観えなくなり、冷静な判断ができなくなることは確かです。

 

つまるところ、それらの感情を現象として、外の世界に創り出してしまい、後に、いろいろ悩む羽目になるのですね。なので、このブログで再三言っているように、そういうネガテイブな感情とか思考が湧いてきたら、とりあえず、放っておきます。

 

ちなみに、ネガティブなものだけでなく、有頂天と呼ばれるような、過度の喜びも注意が必要です。そういう感情とか思考も、湧いてきたら、放っておくこと、大事です。

 

中国の古代兵法書『孫子』には、わざと、敵に、調子に乗らせるような勝利や言動を起こさせ、慢心を誘うという記述があります。人の心とは、のめり込むと如何に危険なものかは、今も昔も変わりません。

 

それはさておき、そういった感情とか思考は放っておくと、いずれ、気持ちが穏やかになります。気持ちが穏やかになれば、ネガティブなものを外の世界に投影する必要がなくなるので、人生が穏やかになっていきます。

 

あまり期待しないで、淡々と生活していれば、そのうち、ささやかでも、自身の思い通りになる(あるいは、願ったこととは別のものだったとしても、結果オーライなことに落ち着く)ことも、けっこう増えてくるかもしれません。

「エゴ」という分類はただの方便である

がしかし、です。この「自我」とか「エゴ」っていうように、意識を分類することって、私自身は、あまり、しないほうがいいんじゃないかって思います。スピリチュアル的なことを説明するのには、確かに、大変便利な言葉です。

 

多くの人々が、「思考と感情は湧いてきても放っておくことができて、それらと同一化せずに生活することができる」なんて思っていません。つまり、思考と感情は自分自身ではないかもしれないと、思いを馳せられる人はたぶん、少数です。

 

なので、そういう、悩みとか苦しみに囚われている人たちが、なにかのきっかけでスピリチュアルを知った時、思考と感情は本当の自分じゃない、っていうことを説明するための方便として、作られた概念でしかない、と私なんかは思います。

 

で、人間って、けっこう、言葉に囚われて、また、悩みを重ねてしまうことが非常に多いと思います。つまり、「自我」「エゴ」って聞いて、「じゃあ、エゴは悪いものだから、絶対に、エゴの言う通りにはしない!」「また、エゴに囚われてしまった!」とか、勝手に思って、勝手に悩んでしまうのです。

エゴはあっても問題ない

エゴって、ほどほどをわきまえれば、別にそんなに悪いものじゃないですよ。この世界に生きているのです。あれも、ほしい、これもほしい、あの人美人だなあ、あんにゃろー、気に食わない奴だ、私はこれだけのことをやってきた・・・。

 

思ったっていいんですよ。その感じたことを、自我だ、エゴだって分類して、「また、囚われた!」なんて、悩むぐらいなら、はじめから、分類なんかしなきゃいいのです。なんだか、わからないけれど、ただ単に湧いてきた意識っていうぐらいに思っておけば良いのです。

 

みんな、「なにかを叶えたい」っていう願望への媚びがあるから、逆に、囚われのループから抜け出せなくなってしまうのです。エゴに気づいたからって、別に、なにもいいことなんか、起こりません。そのように思っていた方がいいです。

 

それよりかは、そういう俗っぽいことを感じて、「ああ、自分にもこういう感情があって、こういうことを感じられる、ああいう人が嫌いなんだなあ、こういうものに興味があるんだなあ」って、面白がってほしいと思います。

 

もちろん、なんども言いますけれど、ほどほどに、です。ほどほどなら、そのエゴのおかげで、人生が彩られていきます。あれをしたい、これがほしい、あれが好き(嫌い)のおかげで、私たちの人生は面白くなっていくのです。

 

結論です!願望に媚びなければ、いい〜じゃないの〜、エゴも、自我もそのままで。(もう、旬が過ぎている・・・汗)

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