私見「さとりの真実」

「さとり」ってどんなイメージ?

唐突ですが、「さとり」っていうと、どんなイメージが湧きますか?

 

良い悪いの判断をせずに、世の中をフラットに、冷静に、なにがあっても、落ち着いて、怒ったり、悲しんだりすることがなく、聖人でも、悪魔でも同等の対応ができる・・・そんな感じでしょうか?

 

このイメージも、間違いじゃないと思います。っていうか、もしかしたら、それが一般的なのかもしれません。一方で、スピリチュアルをかじった方なら、「さとり」とは、「差取り」であり、いろんな「差」を取ることなのだ、と聞いたことがあるかもしれません。

 

私は、実は、こっちの「差をとる」っていうイメージの方が、まあまあ、しっくりきています。

人間は言葉でもって、なんでも区別する

人は、意識的にせよ、無意識的にせよ、いろんな物事を言葉や概念でもって区別しています。

 

男女、老若、左右、上下、善悪・・・なんていう風に、実際には実体がないものについても、言葉を使うことでイメージ的に把握します。その方が、生きていく上で、都合がいいからです。たしかに、男女、老若なんかは、体の構造とか、働きとかの区別が実際にあるように見えます。

 

しかし、構造の違いなどを「ちがい」として決めたのは、ほかでもない、私たちです。だって、人間がいなければ、それらは、ただ、そこに存在するってだけです。「体」っていう名前さえない。

 

これをですね、毎度、毎度、やれ、スピリチュアルだの、やれ現実だ、幻想だ、いい悪い、なんて、やっているこのサイトは、実は、区別しまくりです。

「目に見えないこと」も「目に見えること」もただの現象ってだけ

そもそも、スピだ、現実だ、自我だ、真我だ、宇宙意識だ、って論じる(いい悪いと判断する)ってことは、すでに、そこでもう、差を作りまくってるわけです。

 

「目に見えないこと」、「目に見えること」というように、区別した(差をつけた)のは私たち自身です。目に見えないことも、目に見えることも実は、ただ、そういう現象があるってだけです。それは、ちょうど、上に書いたように、男女や老若、上下の概念と同じ。

 

多くの人は、エゴとか自我をなんとなく、「このままじゃいけないもの」と考え(あるいは、考えさせられ)、真我とか、宇宙意識とかの「すぐれたもの」に到達しよう、一体となろう、悟ろうとします。

 

しかし、「目に見えないこと」と「目に見えること」がどちらも、ただの現象だとするのなら、もはや分ける必要もなく、そこに意味を求める必要はありません。喜怒哀楽をもつ、「私」という自我は、区別なく、無条件で、すでに、初めっから、イコール真我、宇宙意識でもあったのです。

「差をとる」とは、どちらでもよいということ

もはや、あなたは、スピとか、現実とか、区別する必要はありません。どちらも、自由自在に、その間を行き来すればよいのです。大いに喜び、状況によって怒ること、悲しむことに、罪悪感を覚える必要もありません。

 

それは、ただ、ただ、湧いてくるだけのもの。そして、そのうち、現実、幻想、スピリチュアル、さとり・・・どうでもよくなります。どっちでもいいんだと、きっと感じるはずです。

 

差をとる・・・、それは、どこか、ほかにあるよいものに到達することじゃなくて、「すでにそうであったことに、気づくだけ」の、とてもシンプルなものです。そして、すでにそうであったものは、なにも言わず、ただ、そこにあるだけです。だから、意味とか、意義なんて、どちらでもよいのです。それが「差をとった」っていうことです。

 

・・・と、同時に、こんな戯言は、あなたにとっての真実ではありません。大嘘です。今まで、グダグダつまらないことを言い続けてきた、区別しまくりの、こんなサイトを今すぐ、閉じましょう。

 

あなたが今、体験されているものこそ、嘘偽りのない、真実であります。

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